東京家庭裁判所 昭和48年(家)3397号 審判 1974年3月25日
申立人 坂本扶美子(仮名) 外一名
相手方 坂本清治(仮名)
主文
被相続人坂本登喜男の遺産を次のとおり分割する。
(一) 別紙目録記載一、二の各土地を一括して別紙図面表示<イ>、<ロ>、<ハ>、および<A>、<B>の各部分に分割し、<イ>を申立人坂本扶美子、<ロ>を相手方坂本清治<ハ>を申立人岩下嘉津子の、それぞれ取得とし、<A>を申立人坂本扶美子(持分九分の五)、申立人岩下嘉津子(持分九分の二)、相手方坂本清治(持分九分の二)の共有とし、<B>を申立人坂本扶美子、相手方坂本清治の共有(持分各二分の一)とする。
(二) 本件当事者らは別紙目録一、二の各土地を合筆し、別紙図面表示<ロ>と<B>を一括した土地および<イ>、<ハ>、<A>の各土地に分筆する手続をなしたうえ、
(1) 申立人岩下嘉津子および相手方坂本清治は申立人坂本扶美子に対し<イ>の土地につき各九分の二の、
(2) 申立人岩下嘉津子および申立人坂本扶美子は相手方坂本清治に対し<ロ>の土地につき、申立人岩下嘉津子は九分の二の、申立人坂本扶美子は九分の五の、
(3) 申立人坂本扶美子および相手方坂本清治は相手方岩下嘉津子に対し<ハ>の土地につき、申立人坂本扶美子は九分の五の、相手方坂本清治は九分の二の、
(4) <B>の土地につき相手方坂本清治に対し、申立人岩下嘉津子は九分の二の、申立人坂本扶美子は一八分の一の、
それぞれ遺産分割を原因とする共有持分移転登記手続をせよ。
(三) 相手方坂本清治は自己の相続分を超えた遺産を取得する代償として申立人坂本扶美子に対し金八〇万七五九八円およびこれに対する本審判確定の翌日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。
(四) 手続費用のうち鑑定人橋本萬之に支給した鑑定料(八万円)および鑑定人庄幸司郎に支給した鑑定料(三万〇一〇〇円)は、いずれも申立人坂本扶美子九分の五、申立人岩下嘉津子、相手方坂本清治各九分の二の割合による負担とする。
理由
以下に摘示する事実は、特に証拠関係を掲記したところのほか、後記各調停事件記録、本件において提出収集された各証拠資料および申立人両名と相手方各審問の結果に徴して認定したところである。
(前提事実)
本籍鳥取県八頭郡○○町大字○○△△番地坂本登喜男(明治二二年六月一三日生)は昭和四二年七月二六日東京都文京区において死亡し、同人を被相続人とする相続が開始し、同人の妻坂本扶美子(申立人)が法定相続分九分の三、長男坂本清治(相手方)、長女岩下嘉津子(申立人)および三男秀治が法定相続分各九分の二をもつて共同相続したところ、三男秀治が昭和四四年四月四日死亡し、同人には配偶者および直系卑属とも存在しなかつたので、直系尊属(母)たる坂本扶美子(申立人)がその相続分を相続し被相続人の遺産に対する法定相続分は九分の五となつた。本件相続につき相続分の指定はなされていない。
被相続人の遺産は別紙目録記載一、二の各土地であるが、その形状は別紙第一図面表示のとおりであつて、同第二図面表示のとおり両土地上にまたがつて相手方清治所有にかかる家屋番号三四番一の一、木造鉄板葺二階建居宅床面積一階九二・五一平方メートル、二階七一・六八平方メートル(以下「相手方家屋」という)が存在する(乙一、二号証)。
(本件の事実関係)
被相続人は東京都内で公立学校の教員であつたが、東京都立○○工業学校(現在の都立○○工業高等学校)の校長をしているとき、昭和二〇年五月の空襲で罹災し(但し借家)、その後は学校の教室に住んでいたところ、昭和二一~二年ころ退職し、教室を出なければならなくなつたので、昭和二四年一月ころ、当時戦災の焼跡であつた別紙目録一の土地を含む後記の土地を所有者石井晃から買い受け、右土地上に居宅(以下「旧家屋」という)を建築して、これに家族とともに引き移つた。
被相続人は右土地の買受資金として鳥取県○○町の実家の当主である坂本純一郎(被相続人の長兄亡梅松の長男)から十数万円を借り受け、坪当り一〇〇〇円の価格で当初一六四・五二坪を買い受けたものであるが、うち九九・五三坪を斉藤某に転売し、その売得金をもつて実家からの借入金を返済した。そして、その残地六四・九九坪の地上に「旧家屋」を建築したものであり、右「旧家屋」は後記のとおり繩工場の古材を利用して建てた建坪一〇坪五合の平家で、居室は六畳二間であつたが、その後、玄関や台所部分約七坪を増築した。被相続人は、今次大戦で戦死した二男庄二の遺族扶助料や自己の恩給等で生活してきたが、後記のように、土地の一部が帝都高速度交通営団に買収されたので、その売得金により、昭和二八年ころ「旧家屋」に二階六畳一間と階下四畳半一間の二階建部分を増築し、その一部を学生等に間貸しして賃料収入を得てきた。
昭和二八年ころ地下鉄○○線の線路敷地として前記六四・九九坪の一部六・三二坪が帝都高速度交通営団に買収され(買収価格五万〇五六〇円、残りの部分が別紙目録一の土地となつた(甲九号証の一、二、甲一〇号証)。そのころ同営団は前記斉藤某の土地をも買収したが、その一部六・三二坪を被相続人に代替地として交付し、更に営団として使用しない部分三四・八二坪を払い下げることとしたので、昭和三〇年八月申立人岩下嘉津子がそのうち三〇坪を、残部四・八二坪を被相続人が、それぞれ買い受けた。その払下価格は坪当り一万二〇〇〇円であつた。更に被相続人は建物増築の都合上、〇・七坪を同営団から購入したが、被相続人関係の以上三個の土地を合わせた一一・八四坪が別紙目録二の土地(甲一一号証)である。なお申立人岩下嘉津子が買い受けた土地は、同所三四番の五宅地三〇坪(以下「嘉津子土地」という)であり(甲一二号証)、その払下代金三六万円の一部は被相続人が負担した。
相手方清治は旧制中学校五年から陸軍士官学校に入学、同校○○期生として昭和○○年三月卒業、同年五月陸軍少尉に任官、○○の部隊に配属となり、その後○○方面に転じ、陸軍少佐で終戦となり、昭和二一年三月佐世保に上陸、被相続人のもとに帰還した。しかし、住居も職もないので、被相続人の世話で被相続人の知人から文京区○○に土地を借り、被相続人から資金の一部を出して貰つて軍隊時代の同僚とともにバラック建の工場を作り、ここに住んで縄製造業を営み、被相続人の一家もこれを手伝い、応援した。そして前記坂本純一郎の世話で昭和二二年六月一八日妻初枝と婚姻し、昭和二三年四月一七日長女あや子が生れた。
そのうち経済情勢の変動とともに相手方清治の繩製造業は立ち行かなくなつたので昭和二四年に廃業し、右工場を取毀した古材で前記のとおり被相続人が「旧家屋」を建築し、相手方一家も被相続人方に同居することになり、相手方は被相続人の縁故関係の某会社に就職した。その後相手方の妻初枝が肺結核にかかり、その療養の問題や同居中の感情の行違い等から被相続人と相手方との折合いが悪くなり、昭和二七年相手方は当時の勤務先に近い横浜市○○区の借家に移り住んだ。そして昭和二九年七月相手方は会社をやめ、○○自衛隊に三等陸佐として入隊し、○○の借家から○○の部隊に通勤し、昭和三〇年に○○の自衛隊宿舎に入居した。その間、昭和二九年八月二〇日二女照子が生れた。昭和三三年七月相手方は北海道の部隊に転勤となり、相手方一家は北海道に移つた。
申立人嘉津子は昭和一七年三月東京都立○○高等女子学校を卒業して○○大学附属臨時教員養成所に入学、昭和二〇年九月右学校を卒業、直ちに島取県立○○高等女学校に家庭科教諭として赴任し、昭和二二年三月まで勤務したのちに同年四月東京都立○○高等女学校(現在の都立○○高校)教諭に転じ、被相続人のもとに戻つた。そして昭和三一年三月教員の同僚岩下篤と結婚し(同年四月四日婚姻届出)、前記被相続人の「旧家屋」の二階六畳間で同居生活に入つた。挙式の費用一〇万円は被相続人が出した。同年秋、嘉津子と岩下篤とは「嘉津子土地」に居宅を建築することとし、住宅金融公庫からの融資金四二万円と、被相続人からの借入金三一万円余をもつて、総工費七三万円余で木造瓦葺二階建居宅床面積一階一一・七五坪二階八坪(以下「嘉津子家屋」という)を昭和三二年三月完成入居した(甲三号証)。同年五月八日長男政夫が生れ、昭和三六年四月一八日二男年男が生れた。いずれも嘉津子の産休後の幼児の世話は母扶美子が当つた。「旧家屋」の二階六畳は再び学生に間貸しし、賃料収入は被相続人の生活費に充てた。
申立人嘉津子は「嘉津子家屋」二階の六畳と四畳半を昭和三二年四月から学生に間貸しし、部屋代年間一六万九〇〇〇円ないし二二万一〇〇〇円を得たが、前記の「嘉津子土地」購入費、結婚の費用、「嘉津子家屋」建築費等として被相続人から援助を受けたことの代償および父母の扶養や幼児の面倒を見て貰うことの謝礼の趣旨で右部屋代の全部を被相続人および母である申立人扶美子に取得させた。もつとも昭和四二年四月から昭和四三年三月までは後記のとおり「旧家屋」を取り毀して「相手方家屋」を建築するため、被相続人らが「嘉津子家屋」の二階に居住したので、部屋代収入を得ることはできなかつた。この関係は被相続人死亡後も現在まで続いている。なお「嘉津子家屋」は昭和四四年二月増築により床面積一階六二・八二平方メートル、二階四二・九六平方メートルとなつた(前出甲三号証)。
相手方が北海道へ転勤したのち、相手方と被相続人は漸次和解し、相手方は昭和三八年三月長女あや子が中学校二年を修了するに際し、将来の進学の便宜上から被相続人に託し、あや子は同年四月文京区○○中学校に転入学し、被相続人方から通学し、昭和三九年四月都立○○高校に入学した。相手方は昭和三九年七月埼玉県○○の部隊に転勤し○○市の官舎に入居したので、あや子を引き取つた。
相手方は昭和四三年六月自衛隊を二等陸佐で退職したが、その前年には既に退職が内定していたので、被相続人に対し、遺産たる別紙目録記載の各土地上に自己の居宅を建築したい、そのためには「旧家屋」を取り毀して全面的に新築し、この家に被相続人らと相手方が同居することにしたいと申し入れた。被相続人としても「旧家屋」のうち繩工場の古材で建てた部分は老朽してもいたので、この部分を取り毀して、その跡に相手方の家屋を新築することは承諾したが、建築業者の意見で、「旧家屋」のうち昭和二八年ころ増築した二階建の部分も取毀さないと新築家屋の構造がうまく行かないということであつたから、結局この部分も取毀すことになり、被相続人もこれを承諾した。そして被相続人らは昭和四二年三月末「嘉津子家屋」に一時移転して「旧家屋」の取毀しにかかり、被相続人らの意見をも容れた設計のもとに「相手方家屋」の建築が進み、昭和四二年七月一日完成引渡しとなつた。
相手方家屋の建築費用は約四五〇万円であつたが、これは相手方の退職金や共済組合からの借入金をもつて充てたほか、被相続人が約一〇〇万円を出金した。完成後、直ちに被相続人と申立人扶美子および後記のとおり三男秀治が「相手方家屋」に入居したが、被相続人は既に以前からの咽喉部疾患(昭和四〇年三月気管切開手術を受けている)が悪化していたため、入居後まもなくの同年七月二六日右「相手方家屋」で死亡した。右家屋の二階六畳間は引き続き申立人扶美子が学生に間貸しして賃料収入を取得した。「相手方家屋」の横造は、階下は六畳二問、八畳の応接間、六畳と四畳半の連続した部屋、浴室、台所、玄関、便所であり、二階は六畳一間、四畳半四間、三畳二間、洗面所、便所であり、二階は学生へ間貸しすることを予定した構造になつている。申立人扶美子は階下東南角の六畳を居室としていた。
被相続人の三男秀治は昭和二六年ころ○○大学経済学部を卒業し、○○鋳物株式会社に三、四年勤めたのち退職して自衛隊に入隊、○○普通科第三連隊化学幹部として勤務していたが、病気のため昭和四一~二年ころ○○中央病院神経科に入院し、そのまま退職となり、半年後に退院して被相続人のもとへ戻り、「相手方家屋」で療養生活に入つた。同人は、もともと病弱で、昭和四三年当時四〇歳で、なお独身であつたところ、帰宅後まもなく甲状腺癌の症状となり、申立人扶美子や嘉津子が看護に当つたが、昭和四四年三月末容態悪化して○○大学附属病院に入院し、同年四月四日同病院で死亡した。
相手方は自衛隊を退職して昭和四三年三月「相手方家屋」に家族とともに引き移つてきたが、そのころ三男秀治は階下六畳に寝ていたし、申立人扶美子も相手方と生活を共にすることになつたのに、相手方の妻初枝は大宮市にいるころから引き続き○○生命○○支店の外務員として働いていたので、炊事は長女あや子と二女照子が当る状況であり、そのような状態の中で食事の内容に対する不満などから申立人らと相手方やその家族との間柄は再び悪くなつた。そして同年八月、あや子、照子が食事の世話をすることをやめ、申立人嘉津子が扶美子と秀治の分を自宅で作つて運ぶようになつた。秀治死亡後は扶美子は嘉津子方で食事をして現在に至つている。
相手方は自衛隊に在職中は被相続人と申立人扶美子を自己の扶養家族として扶養手当一か月二~三〇〇〇円を受領していたので、その分に相当する金額を不定期に送金していたといい、申立人両名はこれを否定している。昭和四〇年四月以降申立人嘉津子は申立人扶美子を自己の扶養家族とする給与上の手続をとつている。相手方清治は被相続人の死亡に際しても葬儀費は負担せず、家族埋葬費の給付がある筈と主張する申立人嘉津子との間に紛争を生じたが、結局、被相続人の葬儀費用および一周忌の法要の費用は申立人扶美子が負担した。なお、被相続人の三周忌の法要の費用は相手方と申立人嘉津子が半分ずつ負担した。三男秀治の入院費、医療費は申立人扶美子が負担したが、葬儀費用は相手方が負担した。被相続人と三男秀治の墓は昭和四五年九月二四日扶美子が自己の費用で建立した。
「相手方家屋」の二階六畳間の間貸しについては申立人扶美子が引続き入居者の選定から賃料の受領までをしてきたが、昭和四八年四月に至り相手方が自分で入居者を選定して入居させ、賃料一か月一万三〇〇〇円を得て、これを相手方から申立人扶美子に渡すことにし、相手方がこれと共に「敷地の地代を含む」との趣旨の記載をした領収書を添付して渡したのを申立人扶美子がその記載を抹消して返還したことから、相手方は同年一〇月分以降は右金額を扶美子に渡さず、扶美子あてに弁済供託している(本件審判手続中に当裁判所のすすめにより右供託は取りやめ、もとのように申立人扶美子に渡すようになつた)。なお「相手方家屋」の二階四畳半二間は長女あや子(昭和四八年三月○○大学卒業)、二女照子(昭和四八年四月△△大学文学部入学)が使用し、他の四畳半二間および三畳二間は相手方が学生(予備校生)に間貸しして部屋代を得ている。相手方の妻初校は引続き○○生命○○支店に勤め、昭和四六年四月ころ同社△△支店に転じ、昭和四八年八月末日で退職、その後は○○の広告会社に勤めている。相手方は自衛隊退職後は○○市の某会社に勤めている。
「相手方家屋」建築に当り被相続人が出金した一〇〇万円については、相手方としてはこれを被相続人から贈与されたものと思つており、そのかわりに新築後の二階の六畳間の部屋代を被相続人に取得させる旨の合意が被相続人との間に成立したものと考えていたが、何分にも、そのころ被相続人は咽喉部疾患のため発声できず、筆談で打合せがなされたものであるから、その趣旨は相続人らの間でも明確ではなかつた。被相続人の死亡後、親族の立会のもとで申立人扶美子から相手方にその返還を求め、相手方は八〇万円の預金通帳を扶美子に渡し、残金は被相続人の一周忌の費用の一部や三男秀治の葬儀費を相手方が負担することによつて清算されたと関係者らの間で了解されている。
(本件審判手続に至る経過)
坂本扶美子は昭和四六年九月二日、坂本清治および岩下嘉津子を相手方として東京家庭裁判所に本件遺産たる土地を目的とする共有分割の調停申立をし(同庁昭和四六年(家イ)第五四〇四号事件)、右事件は同年一〇月一五日を第一回とし昭和四八年三月一六日まで二五回にわたり調停委員会の調停期日が開かれたが合意成立に至らず、坂本扶美子は改めて岩下嘉津子とともに申立人になり昭和四八年二月七日坂本清治を相手方として同裁判所に遺産分割の調停申立をし(同庁昭和四八年(家イ)第七〇九号事件)、同年三月一六日前記共有物分割の調停申立を取り下げた。
右両事件において、相手方清治は右土地上に「相手方家屋」を建築するにつき被相続人の承諾を受けた以上、右土地につき「地上権」その他の使用権原を有するから、この権原を先ず確定して貰いたいと主張し、自己の持分に相当する土地の分割を受け、その地上に自分の居宅を建築したいと主張する申立人扶美子およびこれに同調する嘉津子と対立し、調停は進展せず、右遺産分割調停事件は昭和四八年三月一六日調停不成立となり、本件審判手続に移行した。
(遺産の分割)
遺産たる別紙目録記載一、二の土地の総額は、鑑定人橋本萬之の鑑定の結果によると、昭和四二年七月二六日の相続時において一六五三万九二〇〇円、昭和四八年六月一五日の鑑定時において三九五六万七四五〇円である。もつとも、この価額は、私道とすべき部分を除き、右土地上には現に「相手方家屋」が建築されているから、建付地として標準価格より一〇パーセント減価された額である。
そこで右「相手方家屋」につき、その敷地使用の権原の有無、性質等が問題となる。前段までに認定した事実関係に基づいて検討すると、相手方が昭和四二年に「相手方家屋」建築につき被相続人の承諾を得たのは、「旧家屋」を取り毀して建て直す趣旨であり、建直し後の新家屋は相手方の所有となるけれども、相手方が父たる被相続人、母扶美子、弟秀治と右家屋において同居し、長男としてこれら家族の面倒を見るということが前提になつているのであつて、特に「旧家屋」のうち昭和二八年に増築された二階建部分をも取毀すについては、新家屋のうち、これに相当する部分を被相続人の所有と同視し、その使用収益を被相続人に委ねることの黙示的合意があつたと推認される(したがつて、この部分に被相続人が居住し、一部を間貸しして賃料収入を得たことも、相手方がこれによつて被相続人を扶養したと見る必要はない。)。そのようなことの代償として、被相続人は遺産たる土地を「相手方家屋」の敷地として無償使用することを許諾したものであるから、右土地使用の権原は一種の負担付使用貸借上の権利に基づくものであり、その負担の関係は被相続人の死亡による相続開始後も母扶美子、弟秀治が生存し、その必要の存するかぎり継続するが、その必要のなくなつたのちも、「相手方家屋」所有のため必要な期間内は単純な使用貸借として残存するものというべきである(最高裁判所昭和四七年七月一八日判決家庭裁判月報二五巻四号三六頁参照)。もし右土地使用の関係が賃貸借であるなら、そこに借地権としての価額が生じ、これが生計の資本として被相続人から相手方に贈与されたことになるが、前記のような属人的関係にもとづく負担付使用貸借は特にこれについての価額を算定することをえず、したがつてこれを生計の資本としての特別受益そのものとみることは相当でない。しかし、右土地については現実に「相手方家屋」が建築されている以上、建付地として標準価格より一〇パーセント減価されたものとみる前記鑑定の評価は相当であり、この減価分は特別受益に準ずることになるが、前段認定の事実関係のもとにおいては、被相続人は民法九〇三条三項にいう持戻義務免除の意思を表示したものというべく、もちろんその意思表示はその余の相続人の遺留分に関する親定に反するものではないから有効である。相手方が被相続人に対し扶養手当相当額を送金したとしても、それは実質的に相手方の所得を減ずるものではないし、「相手方家屋」の六畳間の間貸しによる賃料を被相続人および扶美子に取得させていることも、過去の分を含めて右負担の実行というべきであるから、これによつて被相続人を扶養したものと見る必要はない。
申立人嘉津子の学費および嫁資ならびに帝都高速度交通営団からの「嘉津子土地」の買受代金の一部および「嘉津子家屋」建築資金の一部を被相続人が出捐したことは、いずれも特別受益に該当するが、前示の相手方に対する遺産たる土地に「相手方家屋」を建築するための右土地使用許諾の関係と対比するときは、被相続人は同様に持戻義務免除の意思を表示したものというべきである。したがつて申立人嘉津子が「嘉津子家屋」の一部の使用収益を被相続人や扶美子に委ねたことも、その代償とみるのが相当であるから、これをもつて被相続人を扶養したと見る必要はない。
前記鑑定人橋本萬之の鑑定の結果および鑑定人庄幸司郎の鑑定の結果を総合すると、本件遺産たる土地二筆の実測面積は二五二・五〇平方メートルであり、これを別紙図面のとおり三分割した場合、<A><B>の私道部分と<イ><ロ><ハ>の画地部分は、昭和四八年六月一五日(鑑定時)においてそれぞれ平方メートル当り前者は一一万四〇〇〇円、後者は一六万二九〇〇円、昭和四二年七月二六日(相続時)において、同じく前者は四万七六〇〇円、後者は六万八一〇〇円であることが認められる。これを私道部分<A>二六・一五一四平方メートル、<B>一六・六一四〇平方メートルを除き、画地部分を面積に応じ<イ>一一一・七二九六平方メートル、<ロ>および<ハ>各四九・〇〇一七平方メートルに分割し、<イ>を申立人扶美子、<ロ>を相手方、<ハ>を申立人嘉津子の取得とするなら、私道部分を除き遺産たる土地の現物分割として後段掲記の条件のもとで一応法定相続分に合致することになる。もちろん、このように分割した場合、「相手方家屋」の一部が申立人扶美子所有土地上に存在することになり、右土地使用権の価額だけ相手方は利得し、申立人扶美子は損失を蒙ることになるが、前述のとおり被相続人がこれについての特別受益の持戻義務を免除し、かつ「相手方家屋」の六畳一間の使用収益を申立人扶美子に委ね、かつ同人を右家屋の一室に居住させることによつて償われるわけである。なお私道<A>の部分は申立人扶美子、同嘉津子および相手方の各法定相続分に応じた持分による共有とし、私道<B>の部分は申立人扶美子と相手方の共有とすることは、土地の分割の形状からみてやむをえないものである。
もつとも私道部分を除くその余の土地を当事者らの法定相続分に応じた面積に分割するなら<イ>の画地は一二二・五〇平方メートルとしなければならず、前記のとおり分割する場合、申立人扶美子は一〇・七七一平方メートル分だけ、その余の当事者らに比して不利益となる。これは<B>の私道部分の幅員を<A>の私道部分の幅員と同じにとつたことによつて生じたもので、<B>の私道部分の幅員を半分以下とし、一〇・七七一平方メートル分だけを<イ>の画地部分に入れることにすれば解決する問題であるが、<ロ>の画地が公道に通ずるためには、この程度の幅員の私道を確保する必要があると認められるから、このように分割することはやむをえない。そして<B>の私道部分の共有持分二分の一を相手方清治が取得すると、土地の面積において他の当事者より有利になるが、その取得とすべき<ロ>の画地が一団の土地の最も奥に位置する結果となることや、申立人嘉津子の「嘉津子土地」取得の事情、<B>が私道となるべき土地であり、申立人扶美子との共有であることを考慮すれば、これによつて格別の不公平が生ずるものではない。ただ、その結果、申立人扶美子の取得すべき<イ>の画地についての一〇・七七一平方メートルの不足分を<B>の私道部分の二分の一の共有持分をもつて補うとき、前記鑑定の結果による画地部分の平方メートル当り単価一六万二九〇〇円による一〇・七七一平方メートル分一七五万四五九六円と、同じく私道部分の平方メートル当り単価一一万四〇〇〇円による<B>の面積一六・六一四平方メートルの二分の一の価格九四万六九九八円との差額金八〇万七五九八円(この価格は鑑定時が分割時に近接しているから、分割時にも妥当するものと推認される)は、相手方清治が自己の相続分を超えて遺産を取得したことにより申立人扶美子の取得分がそれだけ減少したものであるから、相手方清治は申立人扶美子に対し相続分の代償として右金額につき債務負担をなすべきである。
よつて前示のとおり遺産たる土地を分割したうえ、右土地については既に本件当事者らのため相続を原因とし各相続分に応じた共有持分移転登記がなされているから、それぞれ分割された土地につき遺産分割を原因とする共有持分移転登記手続をなすべきこと、前記代償金の支払(これについては民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を付加する)を定め、手続費用の負担については家事審判法七条、非訟事件手続法二七条を適用して、主文のとおり審判する。
(家事審判官 田中恒朗)